コロナ禍がはじまる以前から、「一人カラオケ」「一人牛丼屋」など「おひとりさま」は注目されつつありました。
ちなみに私自身は「一人海水浴」をしたことがあり、私の友人には「一人ディズニーランド」をした強者もいます。
ただ一人で過ごしているだけ。
冷静に考えればたったそれだけのことなのに、「おひとりさま」に憧れながらも実践できずにいる人は決して少なくありません。
「おひとりさま」への憧れ

カフェで一人の時間を楽しんでいる人。 大自然の中、一人でキャンプを楽しんでいる人。
一人で自分の時間を楽しんでいる人の姿を想像し、憧れる人はかなり多いです。
多いからこそ、今「おひとりさま」市場が拡大しているのでしょう。
煩わしい人間関係や仕事、すなわち俗世から離れて一人の時間を満喫している人は、ただ精神的な自立をしている印象ではなく、どこか現実離れした、超然とした雰囲気さえかもしだします。
「おひとりさま」に憧れている人の多くは、そんな超然感を求めているのではないでしょうか?
「友達がいない人と思われたくない」

私が子供の頃、
「授業の合間に教室で一人本を読んでると『友達がいない人』と思われそうだからできない」
と言っている人が身の回りに何人かいました。
誰からも誘われないから本を読んで一人の時間を満喫しているフリをする。
教室で本を読んでいた私自身、必ずしもいつもそうだったとは言い切れないものの、そんなところがあったことも否定しません。
地球上全ての人が1日24時間で生きています。その24時間の中で一人の時間が増えれば当然他の人と過ごす時間は短くなります。
目の前の他人は自分自身を映す鏡

目の前の他人は自分自身を映す鏡。
とはよく言われていることです。
たくさんの人がこの言葉を頻繁に使っているためこの言葉にはさまざまな解釈があるとは思いますが、私は、
目の前の他人から受けた印象・感覚こそが自分自身。
と解釈しています。
例えば駅でゴミをポイ捨てしている人を見れば「うわぁ……」と嫌悪感を掻き立てられ、電車の中でお年寄りに席を譲っている人を見れば「私も見習おう」と感じたとします。
この状況を私なりの鏡の話の解釈で捉えると、一番重要なのは、他人を見ることで自分の中から嫌悪感や尊敬の念がわきあがったことです。
「ポイ捨てする人に注目したってことは、あなたにもそういう性分があるってこと」
「お年寄りに席を譲っている人に注目したってことは、あなたにもそういう性分があるってこと」
ではありません。
他人を見たことで抱いたさまざまな感情こそが、自分自身です。
人間は自分とは異なる人間である他人を見ることでこそ、自分自身の存在を感じられます。
逆に言えば他人が存在しなければ自分自身の存在も感じられなくなってしまいます。
他人に自分自身の存在を呼び起こされる。
だからこそ私は「目の前の他人は自分自身を映している鏡だ」と思うのです。
人間関係の中で生きているという前提

「煩わしい人間関係から解放されたい」
私も常々そう痛切に願いながら生きています。
かといって私はあえてあらゆる他人との関係を絶って生きようとは思いません。
そもそも「人間関係に自分は縛られている」という感覚があるからこそ、「人間関係から解放されたい」と願うもの。
自由も不自由も自分が人間関係の中で生きているという前提ありきで生まれる感覚です。
人間関係からの解放をどんなに願っていても、実は解放されることはない。
その状態を私は愚かだとも思いません。
孤独に対する愛憎を堪能する

自分が自分の存在を実感できないまま生きることほど辛く苦しいものはなく、自分が今ここに存在することを示してくれる他人の存在がなければ、人は生きられない。
それを自分でも気づかないほど深いところで知っているため、人はただ一人の時間を過ごしているだけの「おひとりさま」に憧れながらも、それを実践するのが難しい。
人間は孤独を愛しながらも憎まずにいられない。
私もまだまだバランスよく孤独とつきあえるほどの人間ではありません。
ただ、
「自由も不自由も自分が人間関係の中で生きているからこそ生まれる感覚だ」
ということを意識すると、孤独な時間と人とつながっている時間のバランスがとりやすくなるかもしれない……とは思います。
まとめ
他人に依存してしまう人は決して少なくなく、私自身そうした面がないとは口が裂けても言えません。
私もこれまでにたくさんの人に腹を立てると同時に、迷惑をかけながら生きてきました。
ただ、それでも私は時に孤独を愛し、時に憎むことを繰り返しながら生きることこそが、人間らしさだとも思います。
歳を重ね、さまざまなことを経験する中で、孤独を嗜めるようになるのを目指したいものです。