
今年世間で話題になった集英社の少年ジャンプで連載されていた漫画作品『鬼滅の刃』のコミックス最終巻が12月4日全国で発売となった。
11月下旬、最終巻が出る直前に既刊のコミックスを大人買いしていた私も4日の発売日を心待ちにしていた。Amazonの電子書籍kindleで予約注文をしておいたので、当日はすぐにダウンロードして一気読みした。
この記事には私が『鬼滅の刃』を読むに至った経緯と感想を記す。
作品に触れたきっかけは友人
実は私はアニメから『鬼滅の刃』の作品に入った人間だ。Amazonプライムでアニメを全話見ることができたので、まずはそこから作品を知っていった。
元々私はあまり「時の人気作」「時の話題作」に興味を示さないタイプだ。いわゆる「世間の流行に乗らないオレかっこいい」と思うタイプであり、流行している間は話題作に触れようとしない。実際に触れるのは流行が過ぎ去ってからなので我ながらへそ曲がりな性質だと思う。
その私がこれだけ話題になった作品を、しかもアニメと漫画に触れるということは相当なことだ。
きっかけは今年の夏にアメリカに嫁いだ友人だった。彼女が『鬼滅の刃』にどハマりしており、彼女のSNSでは連日ファン語りの投稿が続いていた。
その彼女が渡米する前の6月、私は彼女と直接会うことになった。
「もしかしたらしばらく会えないかもしれないから、少しでも思い出になる会話ができれば」
そう思った私は彼女に会う前にアニメを見始めたのだ。
実際には軽く「『鬼滅の刃』見たよー」と話す程度に終わったが、その後自らも最終巻発売を心待ちにする立場となり、こうしてここに感想文を書いているのだから決してこの行為は無駄ではなかったと思う。
11月末に22巻までを大人買い

アニメ全話を見たところで作品の物語全体を把握することはもちろんできない。「炭治郎『立志』編」と題されたアニメであり、立志があるからには志を遂げる(あるいは遂げられない)結末があるはずだ。
むしろ「立志」とは「物語がこれから始まります」でしかない。
所詮物語の冒頭を知った程度の私は、炭治郎が志を遂げるところまで知りたくなった。
母が、
「最後禰󠄀豆子の竹が取れる」
などというものすごく雑なネタバレをし、「雑なネタバレだな!」と私も思わず突っ込んだが、ツッコミを入れれば入れるほど、その竹が取れるまでの経緯が知りたくて仕方がなくなる。
普段電子書籍のkindleで読書をしている筆者。『鬼滅の刃』も読むのであれば電子書籍でと考えていた。
そんな折にとあるネット記事での一文を目にする。
『鬼滅の刃』電子書籍であれば全巻買ったとしても諭吉でお釣りが来る。
帰り道の電車の中でのことだった。
ここ数年、私は電車で目的の駅を通過してしまうということがなかった。電車の中で居眠りをすることも滅多にない。仮に眠るとしても、寝る前に到着時間にアラームを無音で設定しておくため寝過ごすことはない。
その私が、「『鬼滅の刃』諭吉でお釣りが来るのか……」ということを考えた結果、電車が目的の駅に到着したにもかかわらず気づかないまま通過してしまった。
また別の友人にこの話をすると、友人は、
「もうそれ買った方がいいよ」
とそそのかし、11月下旬、私は遂に『鬼滅の刃』の1〜22巻をダウンロードすることになる。
『鬼滅の刃』感想

全巻まとめ買いした結果、私はものすごい勢いで作品を読み耽った。電子書籍なのでスマートフォンの画面で読める。仕事の休憩時間や電車に乗っている間だけでなく、電車を待っている間やそれこそ信号待ちをしている時にも読んでいた。もちろん歩きスマホだけはしていない。
「全集中、無呼吸!」
まさにその勢いで読んでいた。
こうして作品に全集中できたのは、作品のテンポがいいからだと思う。鬼殺隊の心理描写でなく鬼が鬼になった背景も魅力的だった。
私は作品に没頭した。
そして待ちに待った23巻発売日。話をおさらいしながら読むために12月4日は22巻の後半から読んだ。
結果として23巻の途中まで読んだあたりで飽きた。
延々と続く戦いシーンにだんだん飽きてしまったのだ。
強くしぶとい敵というのは物語を盛り上げるものではあるものの、しぶとすぎると飽きが来る。ページをめくりながら「まだ戦いのシーンが続くのか」と思ってしまった。
ようやく読み終えた時には感動よりも「戦いシーンが終わった……」と安堵したというのが本音だ。
もちろん作品全体は面白かった。だからこそ私も没頭して読むことができたのだとは思う。
ただ、振り返ってみるとあからさまな勧善懲悪物語だったようにも思う。確かに悪者である鬼に対しても同情をそそるよう作品が作られてはいるが、基本は「正義の鬼殺隊vs悪の鬼」という構図でしかない。
鬼が鬼になった背景の描写は所詮鬼殺隊の正義の味方感を引き立てるためのものでしかなく、物語自体はとても分かりやすい、分かりやすすぎてこの世には存在し得ないような勧善懲悪の世界だと感じた。
TwitterやSNSでは勧善懲悪に振り切った意見が目立つ。タイムライン上では多数によって「悪い敵」が想定され、それと戦う構図ができあがっている。
正直私は最終的に『鬼滅の刃』の勧善懲悪と勧善懲悪に振り切ったSNSのタイムラインを重ねてしまった。
なんだかんだ言って私はそういう勧善懲悪物語が苦手なのだと思う。
「キメハラ」について一言

私自身が友人をきっかけに作品に触れた人間だ。だから私が「キメハラ」で苦しむ人の気持ちが分からないというのも不思議ではないのかもしれない。
ただ、それ以上に私は思う。
何を買うかを自由に決められない子供が「キメハラ」に悩むのであればまだしも、ある程度仕事をしていて自分の意思で何を買うかを決められる大人が「キメハラ」で悩むのはおかしい。
『鬼滅の刃』はコミックスは1冊400〜500円程度。上記の通り電子書籍で購入すれば全巻買っても1万円以下のものでしかない。
だいたいの大人が自分の意思で「読むか読まないか」を決められるものなのだ。
自分で「読まない」と判断しただけなのに、周りが話題にしていることで「生き苦しい」などと感じてしまうのは、自分の意思に自信がないだけではないだろうか。
確かに人によっては、
「『鬼滅の刃』読んでないの?!人生損してるぅ〜」
などと言う人もいるかもしれない。しかしそう言ってる人も別に本気で「お前の人生はもうこれから真っ暗闇だ」と予言しているわけではない。もし本気でそう言っている人間がいたとしたら、それは教祖だ。
世間での『鬼滅の刃』の話など、所詮天気の話程度のものでしかない。
「どんなに流行になっていようとも、私は興味が持てない」
そういう意思はあって当然のものだ。自分がそう感じているのであればその意思を大事にすればいい。
キメハラで悩んでいる人の苦しみの原因は、周りが『鬼滅の刃』の話題で盛り上がることではなく、自分自身の意思決定に自信が持てないところにあるのではないだろうか。例え自分で下した決定であったとしても、そこに自信がなければ不安にさいなまれ、ストレスになってしまう。だから生き苦しさを感じてしまう。
だとしたら今キメハラで悩んでいる人は、ブームが去ったとしても何かしらの形で苦しむことになる。
自分の意思で「読まない」と決意したのであれば、その決断に自信を持って欲しい。天気の話と同レベルでしかない話題を「キメハラ」などと言ってしまうのはかえって自分の首を絞める。
ヒットの裏側には必ず戦略がある

ただ、職業柄、作品を楽しむこととは別に「ヒットの裏側」を探るのが好きだ。
「なぜ『鬼滅の刃』がここまで流行ったのか」
私もこういうことを考えた。
いろいろな仮説も読んだ。
「アニメの打ち出し方がうまかった」
「コロナの影響で強豪になるようなコンテンツが作られなかったから『鬼滅の刃』一強となった」
などなど。
個人的には「やはり分かりやすい話はヒットしやすいんだな」とも感じた。
まとめ
没頭して読み耽ったものの、物語自体はあまり好きになれなかった『鬼滅の刃』だが、それでも一読の価値はあると感じた。