
30歳というのはその人が子供の頃の夢をどう変化させたかが現れる年齢だと、つくづく感じる。
ある人は子供の頃の夢を叶え、
ある人は挫折しながらも自分の幸せを見出し、
ある人は「こんなものか」と諦める。
本人を絞め殺しかねない禍にもなり、本人に福をもたらす存在でもある「子供の頃の夢」は、まるで蛇神のようだ。
子供の頃の夢

「大人になったら何になりたい?」
幼稚園から中学生になる頃まで、たびたびそんなことを聞かれた気がする。
「お医者さん」
「学校の先生」
「美容師」
「アイドル」
などなど。子供の頃はみんな七夕の短冊や卒業文集などに思い思いのことを書いていた。
そうした夢は年齢を重ねるごとに消えていく。学校の成績が思わしくないために挫折する人も少なくない。他にもさまざまな理由で夢は消えていく。
成長するにつれて社会のいろんなことを知っていく。そんな中で「大人になったら自分で生活費を稼がなければならない」と思うようにもなる。
思い描いている夢で生活費を稼ぐことが難しいということも知っていく。
子供の頃の夢を諦めてしまう理由には十人十色あるが、それらをつきつめるとみんな、
「自分には無理だ」
と思ってしまうからではないかと思う。
「特別な才能がない自分には無理だ」
次第にそう思うようになり、夢を諦める。
学校を卒業し、就職し、結婚し、出産し……

アラサーの女の話題など、仕事か結婚・出産しかない。それだけでカフェで2時間くらい余裕で盛り上がれる。
盛り上がることはできても、深いところでお互いのことを理解できていないということに気づく瞬間がある。学生時代を共に過ごした友人でさえ、ふと、そんなことに気づくのだ。
双方がそれぞれの人生を歩んでいることに気づく瞬間。
時にその違いに嫉妬しあい、時にお互いの幸せを祝福しあう関係。それがアラサーの女。
その瞬間というのは、相手が子供の頃の夢をどう「しょうか(昇華・消化)」させたかが分かる瞬間でもある。
互いに祝福しあうことができれば「しょうか」させたということ。
一方で、どちらかが、あるいは両方が嫉妬に燃えてしまうということは、やはりどちらか、あるいは両方が子供の頃の夢を「しょうか」できていないということだ。
後者の人間関係が泥沼化してしまうのは想像に難くない。
大蛇が目覚める時

「私の人生って、こんなものか」
子供の頃の夢を「しょうか」できなかった時、人は自分にそう言い聞かせて夢を叶えられなかった自分を慰めようとする。しかしこういう慰めの言葉を自分にかけるとき、その人は同時に自分に対して「落伍者」の烙印を押している。
だからこのように自分を慰めることは、かえって自己否定感を強めてしまう恐れもある。
「私はダメな人間」
自分を肯定する言葉をかけているようで、自分を否定している。
そんな中ではどんなに恵まれた生活の中で幸せな家庭を持っていても、本人は空虚な気持ちを持て余してしまう。そこにある幸せを実感できなくなってしまう。
しょうかできなかった子供の頃の夢は、大蛇となって本人を絞め上げる。
30歳というのは、その大蛇が目を覚ます年齢だと筆者は思う。
まとめ
子供の頃の夢を昇華・消化できた人は、逆にその大蛇をありがたいものとして祀りあげる。
人生にあらゆる恩恵を与えてくれるもの。
人生をより豊かになるように導いてくれるもの。
天からの禍にもなり、福にもなる子供の頃の夢はさながら蛇神のよう。
しかし神なのであれば考え方によっては福を禍に転ずることもできれば、災を福に転ずることもできるはず。
子供の頃の夢というのは例え30歳までに「しょうか」できなかったとしても、実は今からでもどうとでもできるはずのものなのだ。