「自己実現って、別に大それたことではなく、もっとシンプルで簡単なものなんじゃないか」

という話。

世に蔓延る「自己実現の幻」

「ステージの上でライトを浴びて、大勢の前に立ち、社会に対して訴えかけ、行動していく」

SNSなどのソーシャルメディアで「自己実現」について語られているのを見ると、どうしても「自己実現」に対してそんなイメージを抱いてしまいそうになる。実際「自立したい」「成長したい」そして「自己実現したい」と言っている人の話を聞いていると、その自立や成長のイメージに「キラキラしてる」「輝いている」というイメージが背景にあるのを強く感じる。

そして筆者もずっと「自己実現」とはそういうキラキラと輝きを放つものなのだと信じてきた。

ただ、筆者自身ステージに立ち、ライトを浴び、大勢の前で自分の思いを語る経験をしてみて思う。

「自己実現をした結果キラキラと輝きを放つようになった私」というのは所詮幻でしかないのだと。

自分自身が納得していなければ結局何をしても同じ

どんなに社会に対して訴えたいことがあり、その訴えの内容に正当性や正義があると周囲の人が高く評価していても、それを実行する自分自身が腹の底から「自分の主張は正しい」と思っていなければ、自分の心は満たされない。

「あなたの考えは面白い」
「あなたの取り組みには価値がある」

どんなに周囲がそう言ったところで、本人がそう思っていなければどんなに一生懸命取り組んだところで報われない。

目標達成のための長期目標を立て、目の前の課題に取り組み、その過程でたくさんの人から注目され、賞賛され、最終的にそれなりの結果が出たとしても本人の気持ちは満たされない。

満たされない気持ちは他のものへの依存心を生む。

だから自分自身が満たされていなければ、ステージに立とうがライトを浴びようが賞賛されようが、自己実現は果たせないのだ。

本当の自己実現とはプリンを食べて「美味しい」と思うこと

「『自己実現』とは人の役に立たなければならない」

もっと言うと、

「人から賞賛されるようなことでなければ『自己実現した』とは言えない」

と思っている人が多すぎる。

さらに口では「世のため人のため」を語り、承認欲求を醜いものとして扱いながらも本心は「賞賛されたい」でしかなく、その「賞賛されたい」という欲求に蓋をした結果腐らせ、悪臭を放ち、周囲に振りまいている人のなんと多いことか。

そういう人たちからの瘴気に毒された経験がある筆者は、本当の自己実現とはステージに立つことではなくもっとシンプルで簡単なものなのだと痛感した。

例えば家の中でコンビニで買ってきたプリンを食べ、一切の罪悪感もなく「美味しい」と思えること。

プリンを食べたところで誰かの役に立つわけでもなく、人から賞賛されることもない。それで「私はプリンを美味しいと思っている」ということに価値を感じ、誇りが持てる。

その感覚こそが、本当の自己実現なのではないだろうか。

まとめ

誰になんと言われようとも、筆者はプリンが好きだ。

ステージに立って人から注目されている時よりも、自分の作品が高く評価された時よりも、家で「プリン美味しい」と言っている時の方がよっぽど「自己実現してる」と実感できる。

世の中には「プリンが幸せだなんて可哀想な人だな」と言ってくる人もいる。しかしそういう人ほど承認欲求を腐らせ、瘴気を放っているものでもある。

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