
私は「文章が書ける美女」として日々SNSやブログで発信し、電子書籍で小説やエッセイを出版している。ブログは年間で本1冊分。電子書籍出版は先日100作品目を達成した。我ながらこの量を発信できる人はそうそういないのではないかと思っている。
私の読書体験

子供の頃から読書が好きだった。読書を通して自分の知らない世界に行ったり、自分とは異なる他人とたくさん会ってきた。読書好きの人はだいたい「これが楽しいから読書が好きなんだ」と語る。私もその一人だったということ。
自分の知らない世界に行く、自分とは異なる人と会う。こうした経験の中では「じゃあ自分だったらどうするのか」ということを多少なりとも考える。時に物語の登場人物に共感し、時に反感を覚える中で、私は何度も何度も「自分ならどうする?」を考えてきた。
こうして考えてきた結果形成されたのが、今の私の価値観だ。私は読書で自分ではない他人を見ることを通して自分自身を探し、見つけてきた。
読書や芸術の意味

小説やエッセイなどの文芸作品には問題を解決するための答えが書いてあるわけではない。だから読んだところで自分の抱えている問題は解決しない。そういうものだから「小説やエッセイなんて読むだけ時間の無駄」と感じる人がいるのも仕方のないことだと思う。
ただ、私は無駄だからこそ読書には価値がある……と考えている。
実はどれくらい無駄なことを楽しめるかが人生を本当に豊かにする。ただ生きるために、ただ心臓と肺を動かすためだけに毎日必死に働き食事をしている人に対して「豊かさ」そして「人間らしさ」を感じる人はなかなかいない。
もちろん自分にとって毒となるような無駄は省くべきだが、自分を楽しませてくれる無駄は日常の中に積極的に取り入れていくべきだ。
そしてそういうただ楽しいだけで一見無駄なものが、自分の価値観を育てていく。さらにそうして培われた価値観はもし壁にぶつかった時には武器になる。
だから私は「ただ楽しいだけで無駄な」読書には価値があるのだと信じている。
人生を豊かにし、自分の価値観を養えるのは読書だけではない。映画を見る、絵画を見る、音楽を聞くといった「芸術に触れる」という行為も効果的だ。他にも体を動かす、旅行にいくといったこともおすすめする。
私は自分の価値観を育てるための、1つのツールとして私は「読書」をあげているにすぎない。読書が苦手ならばわざわざ私に構うのではなく、もっと自分が本当に好きなことに打ち込めばいい。
私は正解を提示しない

従って私の小説やエッセイにはあくまでも私の考え方や私のなんでもない日常が書いてあるだけだ。ぱっと見の印象では「自分語りを延々にしているだけじゃないか」と思われても仕方がないと自分でも思っている。
多分そのような感想を抱いてしまうのは、私の作品を通して見ようとしているのが自分自身ではなく作者である私なのだろう。言ってしまえば「能世雄妃ってどんな人?」というのを見るために私の作品を読んでしまったから、「結局ただの自分語りじゃないか」と思ってしまう。
私は作品を執筆して読者に正解を提示しようとしているわけではない。
「こういう時、私はこう思うけど『あなたはどう思う?』」
私は作品を、日々の発信を通して読者に常にそう問いかけている。
そして私の問いかけには、
「読者にもっと自分自身のことを知ってもらいたい。そして自分なりの幸せを手に入れてほしい」
という思いが込められている。
まとめ
弱冠30歳。私もまだまだ自分自身の価値観を全て理解したわけではない。だからこそこの多くの人が「自分らしさ」を探す現代で、私が発信することには意味があると思っている。